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酔眼教師の乱雑日記

教師への道(Ⅰ)

 今日は、昼から梅田に出かける予定。少し、思うことを書いておこう。学校における、昇格人事についてである。昨日、昇格人事の会議があった。そのときにつれづれ思った、わが人生の道のりを書いておこう。
 高校時代、素晴らしい先生(哲学専攻)に出会って、高校の教員になろうと思った。ただ、家が商売をしていたので、大学は商経関係しか受験させてもらえなかった、当時の国立一期だけは、希望の学部を受験したが、あえなく「桜散る」(当時、結果の電報を頼むとこの文章がきた)。志と違うが、某大学に進学。本当は、東京のトップクラスの商学部に行きたかったが、「教会に預ける」と言われ、将来、関西でビジネスするのだから、関西の大学で十分と言われる。行かせてもらう身、親の意見を素直にきく酔眼でした。
 1回生始めの、オリエンテーションで講演されたのが、恩師。当時、研究が緒についたばかりであった「マーケティング」について話された。俄然、興味を持ち、この先生のゼミに入ろうと決める、2年先なのに。
 ゼミに入れてもらい、幾ばくかの「マーケティング」の勉強。4回生になったとき、2名を除いて、40名ほどのゼミ生就職が内定していた。当時は高度経済成長期の末期、青田刈りの言葉が示すように、企業の採用決定が早かった。
 残りの1名の△△君(先日の学会の実行委員長)に進路を聞くと「大学院を受験する」。酔眼「俺は家の商売、継がなあかんから・・・」
 秋の入試で、△△君無事合格。良かった良かった。
 時は忘れたが、夕食の折、父親と話す。「△△君、大学院に合格したよ」親父「お前も行きたいのか」、酔眼「出来れば、受けてみたいな」親父「じゃ、受けたらいいではないか」(親父の内心:麻雀ばかりしていて、大学から語学の出席日数が足らないと連絡があったような息子、大学院など合格するはずがない)。
 酔眼、親父には悪いが、高校時代に希望した教師への道、形は変わっても実現する可能性が出来たと思った。
 翌日、恩師に相談、恩師も勧めてくださる。何故か、恩師の授業だけは成績が良かった。卒業した大学は、学年順位が出るのだが、余りの悪さに恩師驚かれる。でも、気を取り直されて、洋書を10冊ほど目の前に積まれる。「酔眼君、3月の試験までに読んでおくといいですよ」酔眼「・・・・・」、お願いした限りは、頑張らねばと、すこし努力する。
 3月の後期入試受験(受験風景については、9月16日の日記を参照してください)先日の娘と同じで「なぜ、合格したんだろう」。多分、学園紛争のドサクサで合格できたのだろう。
 5月頃、親父「お前の実力分ったから、辞めて家の商売手伝え」酔眼「せっかく入ったんだから卒業まで頑張るよ」親父「・・・」、2年間学ぶ。大学院、税理士志望者が大半、そのため、教授陣は彼らを無視して、我々をしごく。勉強になりました。
 2年生の秋頃、恩師「酔眼君、マーケティングやるならアメリカに留学したら」酔眼「大丈夫でしょうかね」恩師「頑張りなさい、帰国したら、大学の席見つけておくから」(当時は、大学の採用人事もおおらかだったのか、恩師が偉大だったのか)
 卒業後、「小売マーケティング」を専攻したくて、小売関係のジャーナルを発行していたニューヨークの某大学院へ。この時期だけは、真剣に勉強した。そのときの財産で生きているようなものである。この時期の唯一の楽しみは、月に1回、日本が日曜日の朝、家に電話をすることであった。当時は電話代も高かった。今、留学している人は幸せだと思う。メールもあるし。
 留学させてくれた両親に感謝。帰国したら、親父の髪は真っ白になっていた。心配かけたのだろうなー。
 帰国後、恩師に見つけていただいた名古屋の大学に奉職。(第一話 完)




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